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『テレビ番組の40年』

 読売新聞芸能部・編(1994年11月発行)


第2部 ブラウン管から誕生した人気者

第3章 クイズ・視聴者参加番組の発展

アメリカ横断ウルトラクイズ

日本テレビ (*1)昭和52年('77)〜平成4年('92)

海外に飛び出した大規模なクイズ

 

■「逆」の発想で敗者のドラマも
 「ニューヨークに行きたいかァー」「ウォー」。司会の福留功男の声に、予選会場の東京・後楽園球場(現・東京ドーム)が熱く揺れる。クイズを解きながら世界を回り、ゴールのニューヨークをめざす。途中で負けた人は“強制送還”――。すごろくのような「アメリカ横断ウルトラクイズ」は、それまでのクイズ番組の形を一変させた。
 きっかけは、「逆」の発想だった。なぜクイズ番組はスタジオの中で収録されるのか、外に飛び出してもいいはずだ。なぜ勝者ばかりにスポットライトが当たるのか、負けた方にだってドラマがあるのに・・・・・・。
 昭和51年、日本テレビの「木曜スペシャル」のチーフプロデューサーだった石川一彦・(*2)現取締役報道局長(60)は、制作会社「ジャパンクリエート」の山崎雅章社長から、こんな企画を持ち込まれた。「海外を飛び歩きながらクイズを解くアイデアは面白い。ぜひ形にしたい」と即座に乗った石川は、「大変なのはそれからで、準備にたっぷり1年かかったね」と苦笑する。
 勝ち抜き戦形式となったクイズの標語は「知力・体力・時の運」。大掛かりな○×クイズの予選で、参加者はまず100分の1に絞られる。さらに、空港ではジャンケンの勝負が関門となる。知識だけでは勝ち抜けない。有名校の学生も次々に落ちていく。新品の旅行トランクを用意しても、負ければそれまで。飛び立つ飛行機に、手を振るしかない。
 答えを誤ると泥のプールに突っ込む「泥んこクイズ」は、グアム島名物として定着した。「日本とは違う広い大地を、目いっぱい走らせたい」と生まれたアメリカ本土での「ばらまきクイズ」。そして、敗者に与えられる罰ゲームにも毎回趣向が凝らされた。
 決勝地点は(*3)ニューヨークの自由の女神像の前。これだけはいつも同じだが、コースは毎回変わった。南アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア・・・・・・。(*4)参加者には、どこへ行くかは知らされない仕組みになっていた。
 この画期的な企画が実現するまでは、局内の多くの人が「不可能」と一笑に付した。旅行代理店や航空会社はもとより、相手国の観光局や同行する医師にも、趣旨を理解してもらわなければ進まないからだ。
 特に、移動の方法や宿泊先を手配する旅行代理店の負担は大きかった。番組が軌道に乗るまでこの苦労を一身に背負ったのが、近畿日本ツーリストで現在、東京第2エージェントセンターで支店長を務める小出靖夫(49)だった。
 「ジャンケンに勝てば、飛行機に乗れる」というのでは、出発直前まで誰が乗るかわからない。小出は「通常のやり方では、航空券の予約すらできない。参加者全員のチケットを用意して、負けた人の分をキャンセルしたが、帰りの飛行機も、誰がいつどこで乗るのか全く不明。まだアメリカ入国にビザが必要なころでしたからね」と苦心談を語る。現地でもハプニングは続出。台風のために撮影が延びて飛行機を予約し直したり、ホテルが予約超過になったりした。

■アメリカ旅行へのあこがれ
 出題の規模も、ほかのクイズ番組とはけた違いだ。毎年、約40人のスタッフが3ヶ月かけて2万問を用意する。これを絞り込み、3次にわたって念入りにチェックした。「面白い問題ほど危険をはらんでいる。参加者が1問でサヨナラとなるこの番組に、ミスは絶対に許されない」と、担当の制作会社「トマホーク」の萩原津年武(つとむ)社長(55)。(*5)「一度も誤りがなかった」と胸を張る。
 一番印象に残る問題は(*6)「左巻きの蚊取り線香は、裏から見ても左巻きか」。萩原は「こういう身近な盲点をついた発想がいい問題なんです」と言う。
 大掛かりなクイズ番組が成立したのは、「参加者にも視聴者にも、アメリカへの旅がまだあこがれの時代だったから」と(*2)日本テレビの石川取締役は言い切る。「当然、制作費も普通の3倍かかった。それでも、絶対にいける自信があったし、実際、毎回30%以上の視聴率が取れたから続けられたんですよ」
 昭和52年、第1回の予選は後楽園球場で行われた。会場に集まったのは404人。ガラガラの様子をごまかすため、1つおきの席にした。番組の人気が高まるとともに、当初、1時間半で2回だった放送も年々回数が増え、最高で5回のシリーズにまでなった。
 参加者の方も増え続け、最高となった(*7)平成3年の第15回には2万8523人に膨らんだ。(*8)参加総数は16年間を通じて、21万3430人にもなったが、(*9)ゴールの自由の女神像にたどり着いたのは31人のみ(第9回はパリ決勝のため0、第11回は3人決勝)だった。
 その中で、初代チャンピオンの栄冠を勝ち得たのは、京都の材木会社社長松尾清三。番組の人気とともに大学生の参加が増え、各大学には、「ウルトラクイズ」出場を目指すためのクイズ同好会も、次々に生まれた。中でも強豪の立命館大学のクイズソサエティーは、三連覇を達成した。女性の優勝者は1人だけだ。
 頂点の「クイズ王」をめざして戦うサバイバルゲームは、「実は青春ドキュメンタリーだったからこそ、見る人を引き付けた」と、日本テレビのエグゼクティブディレクター佐藤孝吉(たかよし)(58)は振り返る。
 国際エミー賞優秀賞を受けた「ピラミッド再現計画」や「カルガモさんのお通りだ」といったヒット作を生み、「はじめてのおつかい」シリーズなどで知られる情報番組「追跡」を人気番組に育てた。ドキュメンタリーを基本に、エンターテイメントを融合させた分野を得意とし、平成5年6月、制作現場の人間としては同局初の取締役に昇進した。
 佐藤自身がこの新しいクイズ番組の底知れないパワーに気付いたのは、「審査委員長」として第1回のロケ隊に加わってからだった。「(*10)羽田を出て、ハワイ経由でサンディエゴに着いたころだね、ぞくっと来た。これはすごいものを始めてしまった、新しい歴史になるぞ、とね」。素人たちが、1歩先はどうなるかわからない状況で戦った様子を、「勝ち抜くことで自信をつけていく。わずか数週間の時間軸の中での成長物語」と表現する。

■汗と涙のドキュメントの魅力
 この成長をうまく引き出したのが、司会の福留功男アナウンサーだ。スタート時は、「木曜スペシャル」のナレーターとして売り出していた。「司会だけではなく、出題も1人でする体験が今の僕を作った」と言い切る。
 「問題を出す時は、客観に徹する。誤解されないように、わかりやすくて公平でなければならないから。一方、司会は主観なんだ。出題前に主観で話していて、『さて、問題』で客観へ。戦いが終わったとたんにまた主観に戻って、『どうしたんだよ、お前』と兄貴役を務める。すべて、今の僕のテンポや持ち味につながっているんだ」
 海外ロケは1ヶ月に及んだ。(*11)早朝の帯番組「ズームイン!!朝!」に加えて、5月からは毎週「全国高等学校クイズ選手権」の予選に立ち会う。9月だけ早朝の生番組を休んで、「アメリカ横断ウルトラクイズ」を担当するというハードスケジュールだった。
 問題は事前に用意されるが、構成台本は1冊もない。参加者たちへのニックネームも、福留が現場でつけた。
 (*12)メキシコで負けた若い女性が、罰ゲームで闘牛場に立たされたことがある。「子牛が出てくるはずだったのに、出てきたのは何と大きな牛。必死でかわして、終わった時の彼女の涙には、僕ももらい泣きしたよ」
 解答者の真剣勝負の行方をリアルにカメラが追い、こぼした部分を福留が言葉で拾い上げる。誇張もやらせもない本物の涙や汗が、視聴者の共感を呼び、勝ち抜き戦が進むにつれて個々の参加者にファンがついた。
 「ニューヨークにたどり着くよりも、そこに着く前に敗れ去った人たちが花。あれは、敗者の歴史の集約なんだ。彼らは非日常の冒険の中で、本人ですら気付いていない輝きを見せてくれたんだよね」
 こう語る福留は(*13)独立してフリーになってからも、「この番組はやりたい」と司会を続けた。そんな名物男も、14回目の放送を見た時、降板を決意する。「プロデューサー福留として番組の中の司会福留を見て、年を感じた。引き際だった」。(*14)第15回の1問目を終えて、若い局アナの福沢明にバトンタッチして走り去った東京ドームには、「福留コール」が響いた。
 平成5年夏、番組は制作されなかった。局側は「予算は1回分で1億円以上。通常の番組の3倍かかる割に、視聴率が取れなくなった」と説明した。
 福留はさらに、「結局、クイズがメーンになって、人生ドラマの部分が薄れた。それが命を縮めたんですよ」と分析する。そのうえで、「あの番組をやったことは、僕の誇り。あれ以上のクイズはない。だから、クイズの司会はやらない」。こう言葉を結んだ。

 

本文中の記述は1994年現在のものである。ひろおかが付けた注釈は以下の通り。

(*1) その後、1998年にも制作されている。
(*2) 2000年現在、福岡放送社長である。
(*3) 実際に自由の女神像前で行われたのは第10〜11回のみである。第1〜8回はパンナムビル屋上、第9回はパリのエッフェル塔前、第12〜16回は船の上であった。
(*4) 実は参加要綱や○×クイズ通過後の説明会で知らされたりするが、これがダミーのコースだったりする。従って、知らされていないも同じである。
(*5) というが、実際には第4回の○×クイズで誤り(「日本では太陽が頭の真上に来ることはない」)があった。
(*6) 実際の問題は「右巻きの蚊取り線香を裏返すと左巻きになる」。問題制作者は青島美幸氏(青島幸男氏の娘)である。
(*7) 2000年現在までの最高は、1998年の今世紀最後大会の5万453人である。
(*8) 第16回までの参加者総数は21万3429人という資料もある。
(*9) (*3)にもあるように、普通は自由の女神にたどり着くという考え方はしない。ニューヨークにたどり着いたのは過去17回で41人(第9回は6人、第11回は3人、第17回は4人)である。
(*10) 当時はまだ成田空港開港前である。
(*11) 「ズームイン!!朝!」のキャスターは1988〜1998年に務めた。従って、このスケジュールは1988〜1990年の3年間だけである。
(*12) 第5回のプラサメヒコ。
(*13) フリーになってから司会をしたのは第14・17回だけ。
(*14) 走ってきたのは福沢アナの方で、福留アナは歩いて去っている。「福留コール」というよりは「トメさん」コールと言う方が適当だろう。


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